昭和40年8月4日      朝の御理解   ★



 おかげを受けておる事が当たり前のようになったり、お粗末、御無礼が(いすみす?)お粗末であり、御無礼であり、それが永久になったりしたんでは、もう信心はおしまいです。
 おかげを受けておる事をおかげを受けておる事として、いよいよ深く広く分からせて頂くということが信心であり、今まで気も付かなかった、今まで自分でそれをそれと思ってもいなかった事が、分からせてもろうて、ここにもこんなお粗末があった、ここにもこういうご無礼があったと、いやここにも、こういうおかげの受けられない元があった、と分からせて頂くということが信心なのである。
 ね、ですから、信心はさせて頂くと人間が、この不幸な、広うな、心が豊かになれる。同時に心が、人間がいわゆる不幸な、ね、深みのある人だと。謙虚な人だと。実意丁寧な人だと。ね、実に丁寧に言うなら謙虚にもならざるおえないのである。信心させて頂けば頂くほど。自分が分かってくればくるほどに、そうなるのである。
 そして、今まで当たり前のことのように思うておった事柄の中に、あれもおかげこれもおかげと、これも神様のお恵みの中にあるのだ、ここにも不可思議な神様の働きの中にあるのだということが分かって来るところに、いよいよ神恩報謝の生活。実意丁寧な信心生活が出来てくるようになるのである。
 ところが反対に信心させて頂くようになってで、信心させて頂いておってもです、ね、お粗末をお粗末と気が付かず、いや気が付いておっても、それが平気になる。ね。初めの間は、例えば信心させて頂きよってこんなことじゃぁいけん、とこう思いながらそれが、あー、あると、心に引っかかりなってんしよっと。引っかかるたんべんに、言うなら御詫びな、お詫びでもさせてもらいよったのが、この頃では心に引っかかりもせんごつなった。人間じゃから、こんくらいな事はと。と言ったようにです、もう平気になった信心はおしまい。
 ね、それでは勿論、おかげをおかげと分かっていくことも出来ないだろう、ね。おかげを分からせてもらい、広く深く有り難いなぁと、こういうおかげの中にあって勿体無いなぁという、そこに信心生活があるのだから。
 どうでしょうか、信心させて頂くようになってその、有り難いことじゃなぁ、勿体ない事じゃなぁと、どんなに考えてもお母さん勿体無いことばいち言う。どんなに考えてもお父さん、相済まんことですなぁとこう、例えば夫婦の中にでもです、ね、もう何時もそういうような言葉のやり取りが出来るような家庭が気付き上げられなければ駄目だと私は思うです。
 お互いの(ひ?)を責め合う。そうですね、もうそれでは信心生活の、言わば尊ささとか(うるわす?)といったようなものはないと私は思う。はい、皆さんどうでしょうか。
 いよいよ、おかげと。いよいよ、し、おかげを受けておる事の有り難さが広く深く分かっていきよるでしょうか。いよいよ、お粗末ご無礼と、本当に自分のようなお粗末者がご無礼者が、ようもようも今日こうやってお生かしのおかげを頂いておるなぁと。ようもようも自分のようなお粗末ご無礼なものがです、(あまつりしなおして?)頂きよる、ここに住まわせて頂いておると言うことがです、大体こういうものを身に付ける資格があるだろうかと。と例えば思わせて頂く、そこからです、本当に相すいませんも有り難うございますも出てくるんじゃないでしょうか。
 ね、そこに信心させて頂く者の、尊い生き方と、言うものがはっきりしてくるとこう思うのです。
 本当に相済まんと、本当に相済まんといったようなこの(ふうが?)見えん、見えないですね。おかげを頂いて、特別のおかげを頂いたと、といや有り難いけど。自分の思いようなら有り難いけれど、自分の思いにならなければ有り難くないと。ね、これではね、私は信心生活させて頂く値打ちはないと思う。
 昨日の朝の御祈念の後に、次次お取り次ぎを願われる方の中にです、ね、ある先生またご無礼いたしましたと、先生またお粗末が重なりましたと。言うてももう、私はもう駄目でございますと。おの位なことが行じられず、この位なことが改まれず、もう先生私は朝晩こうや、朝晩じゃないけども、おー、毎日こうやってご理解頂いており、おりますけれども、もう私は神様から見放されたのじゃないでしょうかと。
 私のような者にしても、こりゃ信心の出来んごと思いますと言うて、夫婦の方ですけれども、そうやって夫婦がここで並んでそれを言われる。皆さんがなんとうなしに生き生きとして、朝参りが出来てあいし、生き生きとして有り難そうにしておられる、ならけれども、私共はなんかしらんけれども、そういうような生き生きとしたものは頂くことが出来ず、それはこういうお粗末ご無礼ばっかり重ねておりますもんですから、と言うようなその、御届けがありました時に、★私は心眼にですね、あのキリスト教の十字架ですね。
 大きな十字架の中にその方が、その十字架がですね、黒い鏡のように見える(んです、私が心眼が?)その十字架が。てその、十字架の中にです、そのその人が今、こんなお粗末をいたしましたこんなご無礼をいたしましたと言うておるのがはっきり映ってるんです。その十字架に。
 ね、大変難儀を背負っておる人は、十字架を背負っておると言うことを申しますでしょう。お道で言うならばです、ね、深い巡りを背負っておると。キリストが十字架上に上られた。ね、本当に、いー、まぁ(あんじて?)私はようこう知りませんけれども、まぁお道のこ、言葉で言うならばです、難儀な氏子の為にキリストご自身が、難儀な、言わば修行をです、(罪の子?)の氏子の為に自分が犠牲になって、罪をこう(あぎなわれた?)ね、そしてご自身が十字架上にはかられる事を喜びとして、えー、一生を終わられたと。ね、そういうような場合です、本当に十字架を背負うておるようなものだと言う意味のことを申しますね。本当に一生苦労が足りない。
 私その、ご心願を頂いてからです、あはー○○さんそりゃ、あのー、その事をです、もうどうして自分な罪深いのであるあと、ね、キリスト教的に言うならば。どうして罪深い自分であろうかと、こうしただらしない(自分が、どうか、どうして?)自分の、おー、その、であろうかと、例えばそのお粗末をご無礼をさせて頂くたんべんにです、その事自身が言うならばおかげで修行が出来ますということ。そのことがです、ね、その事のお詫びの印に、その修行をあえてさ、合掌して受けますというような有り方にならせて頂いたら。それはあなたはそういうめぐりを持っておられるから、持っておられるほどに大きな、人の真似の出来ん修行が出来るのじゃないでしょうかと言うて話た事でした。
 皆さんはどうでしょう。ね、そういうくらいに真剣にです、信心させて頂いておれば、教えに反してばっかりおるからです、ね。こんなことじゃ自分な信心する資格はないと、こう気付かせて頂く間はまだいいのですよ。ところがもうそのくらいな事は当たり前と。ね、そこにはもう、頂いておるおかげそのことですらが、当たり前になってしまいます。そこには、言わば信心の尊さも、信心生活の有り難さもないのです。
 私共が分かれば分かるほど、ね、甘木の初代が仰っておられますように、我よしと思う心がある間は駄目って。別に言わば、物取りやら、人殺しやらしなければ、悪人じゃないと言うことじゃないって言うこと。
 ね、人の物を取らせんもんじゃけん。ね、人を殺させんもんじゃから。ね、だから自分には罪はない、自分にはお粗末ご無礼はないと言ったような考え方では駄目だと言う事。ね、こんくらいなこつは商売人じゃけん当たり前。こんくらいなことは、いう正直者が馬鹿を見るというような中だから、このくらいのことは当たり前と。ね、それでは何時まで経っても教祖の教えてくださる、信心生活の(話し合い?)というものは頂く、頂かれない。ね。
 自分の心の中にです、はー、これじゃ、くんくらいな事じゃおかげ頂けれるはずはない、というものをです、一つまず詮索させてもらわにゃいけん。ほれでそこに勿論、取り組んで改まって行くことに、いー、精進させて頂かねばならんけれどもです、ね、それがまたお粗末になりました、またご無礼になりましたというような時にはです、それをそのまま十字架としなければならんと私は思う。ね。
 いわゆるめぐり深き、じき、私であるという自覚に立たせてもろうて、その巡りの深い私ですら神様が、(かく?)までにおかげを下さる。勿体無いことである、有り難い事ではあるということに、だからなってくるのではないでしょうか。
 自分がいいと思うておる、その心をです、言わば(  ?  )に思われたっと言う、甘木の初代の生き方なのですよ。ね、そこから私は実意丁寧な神信心。実意丁寧神信心と仰る信心が出きるのじゃないだろうか。
 実意丁寧とは、まがままを言わんとこであり、実意丁寧とは横着をしなければ結構です、と金光様は仰っておる。三代様がね。私共の心から横着な心、わがままな心、これを取り除かせて頂いた心が、そのまま実意丁寧な心ということになるわけなのですから、(たのみ?)をいよいよ自分のめぐりの自覚、同時に日々私共が知らず知らずにおかしておるお粗末ご無礼もさる事ながら、はーこげなことしちゃ神様は好きなさらん、と大体分かっておるばってん、ついそれがお粗末になり、または自分でそれを知りな、あー、しらば、ながらまた知っておりながらです、ね、とうとうまたお粗末を重ねてしもうたと。
 それが段々初めの間はです、気にかかりお詫びもしよったんだけれども、はー、私のようなもんなもうつまらん。もういくらお詫びしても(神にご合いする?)言わば顔がなか。面がなか。こんなお粗末を重ねとったんじゃ。こりゃもう自分がつまらんとじゃろうか、と言うような、ところに言わばないものですけれども、そこをそれをです、ね、言わば十字架にさせてもろうておかげを頂いて行かなければなりません。
 ね、そしてそのことの印に、その事のお詫びの印に、普通の人が真似の出来ない信心をさせて頂くような、おかげを頂いたらそのこともまた有り難いということになるのじゃないでしょうか。
 その有り難いというものが生まれてまいりますとです、今まで出来そうにもなかったような、お粗末ご無礼を重ねておったそのことはです、また改めて(おれるようにも?)なるから有り難いのです。おかげ頂かなきゃいけません。



7/3終了  梶原 佳行